ビザンツ帝国(今は亡き国家)の盛衰を大学受験に沿って解説していきます
ビザンツ帝国のはじまり
379年テオドシウス帝が即位して、こんな遺言を残しました
巨大なローマ帝国は、長男のアルカディウスに東、次男のホノリウスに西の領土を分割して統治させよ、たのんだ^^
そして彼の死後の395年、いよいよ西はミラノを首都とする西ローマ帝国、東はコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国に分裂しました
このように、東ローマ帝国はローマの色というよりも、ギリシャ的な色が濃い場所にあり、文化・宗教・言葉が次第にギリシャ的な性格になっていきます
分裂当初は「第二のローマ帝国」 と呼ばれてました。しかし7世紀頃から、都のコンスタンティノープルのギリシャ時代の名前=ビザンティオンに由来して、「ビザンツ帝国」と言われるように..
「え?なんかダサくね?2番てww」の議論があったに違いありませんね
ちなみに、世界史における中世の幕開けのターニングポイントは、476年の西ローマ帝国の滅亡とされてます
この年に西ローマ帝国は滅亡するけども、東のビザンツ帝国は1453年まで発展と衰退を繰り返す運命になります
そしてビザンツ帝国の国歌はこんなリズム!!
ギリシャ正教=国で、西ヨーロッパとは全く違う世界観が伝わってきますね〜。厳粛で荘厳なこの音楽。教会の中で聴くと、まるで昇天しそうな気分になっちゃいます^^;
ビザンツ帝国の宗教と文化と言葉
ビザンツ帝国の政治と経済のルールはもともとのローマ帝国を引き継ぎましたが、文化・宗教・言葉は以下のようにギリシャ化していきます
- 文化:ギリシャ・ヘレニズム
- 宗教:ギリシャ正教
- 言葉:ラテン語→ギリシャ語
この文化・宗教・言葉はぜひ覚えましょう!
入試では、「ビザンツ帝国では〜〜カトリックが・・・」の文章の正誤判定させる問題がでてきます。これを知ってらたもう即消しできますよ!
*ヘレニズム文化については詳しくは以下の記事を参照ください
関連:世界史「ヘレニズム文化」のポイント3つ(言葉・哲学・美術)をまとめたよ!【大学受験解説】
もともとローマ帝国からはキリスト教を継承しました。しかしローマ帝国のカトリックではなく、ギリシャ正教というまた独特な発展をします
西のカトリック、東のギリシャ正教ということですね
特に726年の「聖像」をめぐって、当時のビザンツ皇帝レオ3世は「聖像禁止令」を発布しました
「聖像」とはキリスト教の信仰のためにつくられたイエスやマリアの聖人の像のことです。
当時は西のカトリックと東のギリシャ正教で、「神様が人間や万物を創造したにもかかわらず、俺らがつくってもいいのか?!」と、論争が展開されたんですね
背景に、現在のトルコに位置する小アジアをめぐってイスラーム勢力と絶えず武力闘争がありました
ある戦いでイスラーム勢力を屈服させた時に、あるビザンツ帝国の農民が「イスラームと同じように、わしらも偶像をつくること、やめにせえへんか?」って訴えがあったことをきっかけに「聖像禁止令」が出されました
しかし真の狙いは、教会・修道院の持っている土地を没収することだったそう。膨大な戦費をまかなうには、その土地とそこにいる領民を取り上げる必要があったんですね・・・
受験で「聖像禁止令」の目的が問われたら、「免税特権をもつ教会・修道院の大所有の発達をおさえ、軍隊の土台となる自由な小農民層を育てることを目的としていた」
と答えるとよさそうです!
どの時代の政策にも本音と建前があるってことですね^^;
最盛期の頃のユスティニアヌス時代
*ユスティアヌス大帝の顔(ただのおっさんやんけ)
ビザンツ帝国の皇帝で特に有名なのが、「ユスティニアヌス大帝」!彼の時代にビザンツ帝国は全盛期をむかえます
彼の業績には
- トリボニアヌスに『ローマ法大全』の編纂命令
- 東ローマの繁栄を象徴する『ハギア=ソフィア大聖堂』の建造
- ヴァンダル王国、東ゴート王国を滅亡させ、西ゴートの一部を占領
など、内政・外政ともに後世の社会に影響を与えることばかり!
「世界史」の入試では、ユスティニアヌスで10点分も出題される場合もありますからね
ハギア=ソフィア大聖堂は、オスマン帝国に支配された時、スルタン(王様)のメフメト2世は「その美しさ」に感嘆して、キリスト教様式を残したまま、イスラームの礼拝堂(モスク)に変えました
ある意味で「特異な宗教文化遺産」なので、イスタンブルに行ったらぜひ行ってくださいね!キリストとイスラームのフュージョンを目の当たりにできますよー!
関連:ユスティニアヌス大帝とテオドラのラブラブ関係の話【世界史の超大物夫婦】
ビザンツ帝国の衰退と滅亡(1453年)
ユスティニアヌス帝で全盛期をむかえたビザンツ帝国は、1453年に滅亡することになります
その過程をみると・・
8〜9世紀には北のバルカン半島でトルコ系のブルガール人が好戦的になり、ビザンツ帝国領を脅かします。そしてちゃっかりと9世紀にブルガール帝国を建国し、ビザンツ領土が縮小します
11世紀には、中央アジアから勢力を広げるトルコ系イスラーム国家のセルジューク朝に侵略されるようになりましたorz 有名な1071年の「マンジケルトの戦い」でいよいよ小アジアを失いますorz・・
セルジューク朝がキリスト教の聖地イェルサレムを占領すると、ビザンツ皇帝は「おーーい助けて〜〜!もう無理ぽ><;;;」と叫んで西のローマ・カトリック教会の教皇に助けを求めました。これがあの十字軍です
聖地イェルサレムの奪還が目的だったものの、お金が目的になり、結局ビザンツ帝国の領土は縮んでいく一途を辿ります・・orz
そして1453年 、強大化するトルコ系国家のオスマン帝国のメフメト2世によって、首都のコンスタンティノープルは陥落しました
約1000年以上も存続したビザンツ帝国の滅亡は、近隣の世界を震撼させます
西ヨーロッパのキリスト教世界にとって超衝撃的なニュースでしたね、そして、古代ローマから続くキリスト教の絶対性が揺らぐ時代に突入するのです・・
★大学入試の過去問〜!!★
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、6世紀のユスティニアヌス帝の時代に地中海をとりまく多くの地域を征服し支配したが、彼の死後、次第にその支配地を失っていった。
その過程で、ビザンツ帝国の歴史に特に大きな影響を与えたのが、トルコ系の人々が打ち立てた諸国家による攻撃であった。この経緯について4行以内で記述しなさい。
出典:東京大学(2014年)
いや〜まさかのユスティニアヌスについてではない・・
「まあまあ、ユスティニアヌス帝のやったことは大学入試必須だし、みんなあたりまえに勉強してるよね。だからあえて問わないよ!^^むしろね、衰退を知ってる人は隅々までしっかり勉強してる証拠!そんな人が欲しい^^」
って大学側の意図でしょう
彼の死後の「帝国の衰退」を描く問題です
解答のポイントは...
- ブルガール人のブルガリア帝国の建国(7世紀)
- セルジューク朝の侵食(11世紀)
- オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落(15世紀半ば)
の出来事を漏れなく記述できたら完答です
あえて「衰退」を問うあたりが日本最高学府らしい問題ですが、教科書を読み込めば十分に得点できる標準的な問題です
今に存在しない「ビザンツ帝国」
よ〜〜く復習してみてくださいね!!