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シンプルに、ものを書く

「自由」すぎると逆に辛い?!そんな時に読んで欲しい記事【選択のパラドックス】

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「自由だけど飽きたお」

「自由すぎてむしろ辛いお」

 

自由すぎて飽きたんだけど爆

 

あれほど「自由になりてー!」「好きなだけ好きなことしてー!」って巨大な欲望を抱えてたにもかわらずです

 

意外にも、「わかるわーww」って人はたくさんいるのではないでしょうか

 

でも、あれ、この感情ってなんで?どこからくるの?

 

と気になったんで掘り下げてみます

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身近な経験は「一人暮らし」

 
 
 
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「 門限いらん!好き勝ってやって一日中ゲームしてやる!!」と実家を飛び出して、一人暮らしをはじめた君

 

こんな部屋のど真ん中である日

 

自由ってそうでもないな

 

って幻滅してはないだろうか

 

あれほど遅く帰っても怒られず、かたずけも好きな時にやればよく、何をやっても自由な日を夢見てたのに...

 

どうして「自由」になったのに、待ち望んだ「自由」を手にしたのに「俺ってそこまで満足いってないんだろう...」と何とも形容し難いやるせない気持ちになってしまいます

 

うむ.....手にしてしまった自由にはもはや意味がないのか?

そこそこルールがあるからいい

なんでもやってもOK!好きなようにしててもOK!の「なんでもあり」の状態ではつまらなくなってしまうんですね

 

で僕が思うにはそこそこの「規制」や「ルール」が存在するからこそ、正しい競争ができて、そこのおもしろみを見い出せるんです

 

「規制」や「ルール」がない場合...

  • スマブラのアイテム全部アリ
  • 手も使ってもいいサッカー
  • ボールを持ったまま走ってもいいバスケ
  • なんでもありの一人暮らし

ってつまらねーよつまらねー!!

 

スマブラのアイテム全アリってさ、すーぐ飛ばせちゃえるし、お互いの実力もわからなくなる。つまんない!

 

 

こんな感じに「人生」ってゆう大きなゲームでもある程度のそこそこの「規制」と「ルール」があって、それを感じてた方がおもしろいんです

 

いや正しく解釈すれば、おもしろいというか、つまらないってことが薄れるそんな感じ

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「選択のパラドックス」を打ち破れ 

そう、「自由すぎるからつまらねえよー」って感情には名前がありました

 

それは「選択のパラドックス」

 

え?パラドックスってなに?それは矛盾を意味します

 

世界の歴史、古代から近現代までを通して、人は「自由」を求めてきたので、「自由」は超ポジティブ=理想って理解されてます

 

って、あれ?「自由」だけど、「超理想」を手にしたけどそこまで幸せじゃねーよ。って人が気づいたのが、この「選択のパラドックス」

 

選択肢があればあるほど、つまり「なんでもやってもいいよ!」って状態に近づくほど、幸せになると思いきや遠ざかってしまうことです 

 

このバリー・シュワルツ氏は一昔前に(ガラケー時代)、この「選択のパラドックス」を唱えてます

www.youtube.com

で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」って言葉が象徴するように、100年前と比べたら、今の時代ははるか〜〜〜に「自由」だし、「選択」のありかたも無限大!

 

みんながこの贅沢な悩みの「選択のパラドックス」に直面しててもおかしくないんですね

「たられば」がでてしまうのが問題

そんな「選択のパラドックス」はやってもいいよ!ってことが無限通りあるので、「あれやっておけばよかった...」「そうしておけばよかった...」

 

って「たられば思考」に陥ってしまうのも問題です

 

難し〜〜い言い方をすれば「相対化」ができるようになるのも「選択肢の無限化」によってひきおこされますね

 

「相対化」って比べるってことですが、「ああした、ああしなかった」と自分の過去を責めたり、「あの人はこうしたよなあ」って他人と比べて、自分の選択を責めてしまうことになります

 

 

むしろ「お前は畑で野菜作っておけー!!」って決められて、選択が限定されてた方が「相対化」をしなくて済んだりします

 

ゆえに不幸せにはならない。そんな見方もできます

これだけは譲れん基準を3つ持とう

そこで、「あ、俺氏、選択のパラドックス感じてんなあ!」「自由すぎて困ってんな俺氏」って時が来たら...

 

アクションを選択するにあたってこれだけは譲れない基準を3つ持ちましょう

 

この基準は抽象的(ふんわり)な感じがベターです

 

どのくらいかというと、その言葉にたいして、3つほど具体例が浮かぶくらい

 

就職活動!うっしゃ仕事探すぞー!ってとき!

どうしよーどんな仕事しよーてなります

 

  • 人と接する時間が限りなく短い
  • 座ってる時間が限りなく長い

って「これだけは譲れねーわ」って基準です

 

自分で決め切った「基準」を絶対に、選択のアクションをおこしていきましょ!

 

つまり、あえて自分が自分に「制限」をつくることで、無限たる選択肢を絞るってわけ!

 

自分の意思の決断なので「たられば思考」もなくなるし、「自由すぎて辛いわー」って気持ちも無くなります

 ちょっとしたストレスがいいんだよな!

やっぱりアイテム全部アリのスマブラはつまらねーし、ボール持ち運んでもいいバスケはつまらねーよなあ

 

ちょっとした「制限」とちょっとした「ストレス」って、自由すぎる時代のある意味での処方箋なのかも!

 

でもあまりにも行きすぎた「制限」と「ストレス」だと、「自由よこせーーー!」ってオコだし時代逆行なのもまたむずい

 

まあね

 

人間って無い物ねだりなのよな

 

結局そう。今目の前にあるものに満足できる、あるいは満足を感じる考え方が上手な人がTUEEEEE

 

いやむしろ、自分で「あ、俺氏色々選択肢があって何やっても自由だけど、その無限すぎる選択肢のせいで困ってるわ」って、

 

「選択のパラドックス」をメタ認知(自分で自分のことに気づく)できればいいかも。いやここまで読んだならすべきだろ!

 

 

...とにかく

 

自由はいいけど暇すぎ辛w

自由はいいけど逆に困るw

 

って鬱憤晴らしに読んで欲しい記事でした。参考になれば幸いです