人類の最大目標・人生の最大目的=『幸せ』
人間はあたりまえに慣れると、幸せを感じにくい。
とはいえ、あたりまえというのは、あたりまえになっていくのがあたりまえ。
それはどの国の、どの人にでも言えること!
幸福度ランキングをみても、先進国がトップを占めるのではないことにも繋がったり
便利な社会だったり、ちょっと抽象的な表現を使うと、経済的な成熟社会では、
”幸せ”を感じ取る力が鈍い傾向にあるとおもんですなあ。
例:百獣の王、武井壮の幸福の価値観も参照できるはず。
『幸せ』という定義を巡ってはその議論の数は枚挙にいとまがないので、詳細は割愛。
しかし、『幸せ』は手に入れるものではなくて、気づくもの。
お金とか、女とか、男とか、豪華な食事とか、有名になることとか、
確かに、幸せを構成するひとつのその人にとっての構成要素かもしれない。
もちろん、財的なものを手に入れる行為のみでは、永続的な幸せには届かない。
・・・そんなことはよく聞ける、幸せについての話だろう。
では、どうやったら、その形而上的な、存在としての『幸せ』に届くのだろう
一つのあり方として、それは、考え方にクセをつける、そんな気がする
幸せになる考え方のトリックはこれだな
あたりまえを失ったらどうか、消えてしまったらどうか、これを脳内妄想。
コレに尽きる。
モチベーションにも、正のもの、負のものがあるけれども、
- 受験で失敗したくない、だから頑張る(負)
- 受験で成功して、やりたいところに進学したい(正)
この理屈にやや似通っていたりする、負のモチベーションに近い考え方。
当たり前にある、当たり前なものごと、それが無くなったらどう思うか。
加えて、その無くなったらどう思うか、という考えを続けられるか。
超絶、シンプルで。そんなことかよ、当たり前やわ〜と思われるかもしれない。
でも、なんでもある、不自由なく生活できてしまう成熟社会では、欠かせない思考法。
ふーつーうの毎日のように、あたりまえに友達と下ネタでしょうもなく過ごしたり、
あたりまえのように、半ば作業的に、学校に通いつめたり、
あたりまえのように、一日中引きこもってのNetflixとかゲーム・・・
・・・数え切れるわけない。あたりまえなんて、人にとって、無限にある。
大切なのは、存在としての幸せに気付けるか否かである。
なんかしょうもない廃人的な1日や〜と家に引きこもる、そんな考えよりも、
今が自由すぎて・・これが無くってしまって、休む暇もない状態よりも断然幸せ。
といったように、(具体的なおもろい例を出せなくてすまない。)
『失って気づく幸せ。』っていうかなり臭い素晴らしい文言があるが、
自由な生活だったり、健康な生活だったり。
働きづめで自由が無くなったり、怪我や病気などして、健康な生活が送れなくなったり。
そんな時に、『あああ、俺って幸せやったんや』っていう幸せの形態のことやな。
つまり、この記事で言いたいことは、
『失って気づく幸せ。』を噛み締めているであろう自己の未来像を想像すること。
今あるあたりまえな生活に鬱憤があったり、あたりまえな生活にもう散々であるならば、尚よいかもしれない。
それが無くなったら、きっと、『失って気づく幸せ』状態になるだろう。
であるならば、ヒューマンビーイングの授かった脳みそとその仕組みをフルに使ってしまえば、友達とか、家族がいなくなった生活、あたりまえから逸脱した生活できるのである。
『失って気づく幸せ』を疑似体験すれば、その日、その瞬間に感謝できるのかもしれない。
思った以上に、存在としてのそれに、気付けるきっかけを与えてくれるものだ。