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荒れ狂う人の一生!!

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の一場面を考えてみた。

 食べます、動きます、読みます、すっかり秋をしてるこの頃でございます。

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今回は、ようやく文庫バージョンの【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】(村上春樹,作)をようやく先日手に入れたのですが、(まだ読み進め中)そこで、ピンときた、一節について考えてゆきたい内容です!

 

 

作品のとある一場面の中で、自由な生き方】にふれる会話がありました。

 

 

ページめくりをひとたび休憩し、

 

僕は自分の中で、【自由な生き方】はなんだろうと、自身に問いました。

 

 

・・・(好きなときに好きなところへ行って、好きなことをそこですること。また、好きなことを常に考えていられる。)・・まぁこんな感じだろうなあと。

 

 

まさにドンピシャで、次に続くセリフそっくりに【自由な生き方】を描けたわけですあが、やはり誰しもが望んでいる生き方であり、同時に、簡単なことではないのでしょう。

 

 

と、いうのも、(以下引用ですので、読み流してもらえればと思います)

「でも、それは、簡単なことじゃないよ。」

 

「簡単なことじゃありません。・・・僕は常に自由でありたい。料理をするのは好きだけど、仕事として調理場に閉じ込められたくありません。そんなことをしたらそのうち誰かを憎み始めるようになります。」

 

「誰を?」

 

『「コックはウェイターを憎み、どちらも客を恨む」』・・(中略)「『調理場』という戯曲に出てくる言葉です。自由を奪われた人間は必ず誰かを憎むようになります。」

 

「束縛されない状況にいつも身を置いて、自分の頭で自由にものを考えるーそれが君の望んでいることだね?」

 

「そうです」

 

正直、ものすごくわかる気もするのです。

 

僕はたしかに、料理が好きで、ある飲食店でアルバイトをしていたことがありましたが、もう、まさに、『どちらも客を恨む』状態であったかもしれません。

 

調理が好きで、キッチンに入れてもらえた幸せと、

それを仕事にする幸せは、やはり相容れないのかもしれません。

 

 

人間(人が人を支え、”人”という字ができるように)である以上、必ずや誰かの世話や助けをもらわなければ生き抜くことはできるはずありません。

 

 

遥かかなたの秘境へ身を隠し、真に孤独を貫かないかぎり、人の頼みをきき、また人に頼む環境は必然的に伴います。その頼みをきいてあげる行いこそが、『仕事』のあり方であると思います。たとえ、好きで料理していても、映像を編集していても、文章を書いていても、それをやってあげる対象の誰かが、わたしたちの前にいる限り、わたしたちの時間を割いている限り、ここでいう”究極”の自由は実現しないわけです。

 

 

 

*好きを仕事にして、それを好きでありつづけるには・・・。

 

 

 

ちょっと肩の荷をおろしてみること。これこそが、自分にとってのカギではないのかな、と思っており、「好きなことが仕事」な以上、絶対に好きで”なければならない”、と力みが入ってしまったり、好きなことが仕事だけに、求める基準もひょっとすると高く高くなっていることと思うのです。

 

 

 

戯曲の『調理場』でシェフとウェイターが客を恨むことが過去から受け継がれる真理であるとするならば、たとえ好きなことを仕事にしても、多少の時間と自由の犠牲は付き物で、避けられないんだ。

 

 

と心構えをつくってあげると、スッとココロの荷が下りて、

 

 

好きな仕事に対して、好きな姿勢を純粋に保てる余裕がうまれるのではないでしょうか。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

 

 

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